★★★☆☆
あらすじ
かつて映画を撮影した場所、コケールがイラン地震で被災し、住人たちの安否が気になる映画監督は、息子とともに車で現地に向かう。
アッバロ・キアロスタミ監督。コケール・トリロジーの第2作目。イラン映画。95分。
感想
トリロジー前作「友だちのうちはどこ?」の出演者たちの安否を確認するため、映画監督が息子を連れて被災地を訪れる物語だ。
撮影地は実際にイラン地震で被災しており、セミ・ドキュメンタリーのようになっている。大きな幹線道路を外れて小道を行くと、被災地が現れる。建物が崩れた瓦礫の山の中で黙々と作業する人たちが見える光景は、これまでニュース映像で何度も見てきた被災地の姿を思い起こさせて、胸が痛くなる。
主人公である映画監督は、人々に道をたずねながら、目的地を目指す。そしてまず撮影地の一つにたどり着く。その直前に前作の印象的なジグザグ道が車から見えた時は、あの時の道だ、戻ってきたのだなと感慨深くなった。主人公は車を停め、周囲の人に話を聞き、何人かの出演者たちにも会うことが出来た。
主人公が村人たちと話している間、彼の息子は被災地独特の雰囲気をものともせず、自由に動き回る。さらには臆することなく村人たちに話しかけ、父親そっくりだ。ただインタビューだけならまだしも、地震で子供を失った母親に分かったような説教を始めたのにはドキドキしてしまった。彼女がいつブチ切れるかと冷や冷やする。
だがその母親は最後まで静かに話を聞いていた。神様の話だったので、とりあえずはちゃんと聞こうとしたのだろう。彼女に限らず、主人公が出会う人々の多くは家族や親せきなど身近な者たちを失っているが、皆が感情を出さずに淡々としているのは印象的だ。
これは、それなりの時間が経っているし、生活を立て直すためにやるべきことが多いからというのもあるだろうが、宗教の影響も大きいような気がする。身近な人が理不尽に死んでしまったことを受け入れるには、結局は「仕方がなかった」と割り切るしかない。その時に「神の意志だった」と考えられるのは強力なインセンティブだ。宗教の利点だろう。
主人公が彼らの復旧作業を積極的に手伝うわけでもなく、救援物資を持っていくわけでもなく、ただ話を聞くだけなのも不思議だ。それでも精神的に堪えそうではあるが、途中で泣きつく老婆に「神の思し召しだから」とさらっと返していたように、ここでも神様のせいにして、無力な自分に対する罪悪感を減じさせている。
被災者たちはそんな彼に対して、警戒するでも怒るでもなく、自然体で接している。すべては神の意志によるものだと自分を納得させているから、誰を恨むでもなく、ただ自分のやるべきことを淡々とやれるのだろう。
前作の主演の少年を探すために、主人公はどんどんと車を進める。最終的には険しい急坂を車が乗り越えられるか?みたいなチャレンジ映像になっていたが、案外面白くて、ずっと見ていられる。手に汗握りながら見ていたが、これは人生に似ているなとふと思った。
そして、主人公が車を走らせるこれまでの姿は、人生そのものを表していたのだと気付いた。時々道をたずねつつ、途中で誰かを乗せたり降ろしたり、時には道行く人を助けたり、逆に助けられたりしながら車を走らせ続ける。地震のような予期せぬ出来事が起きても、それでもこんな風に人は前に進もうとするものだ。そして人生は続いていく。
主人公の目的だった主演の少年に会えたかどうかを描かないところも、まだまだ人生の途中だという余韻を醸し出していて、趣深い。
スタッフ/キャスト
監督/脚本/編集 アッバス・キアロスタミ
出演 ファルハッド・ケラドマンド/プーヤ・パイヴァール
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