★★★★☆
あらすじ
引退後に以前から気になっていた詩人に関する本を出版した元大学教授は、内容に批判的なレビューがネットに上がったことから、思わぬ炎上騒動に巻き込まれていく。
感想
あまり注目されないだろう地味な本を出版したところ、ネット炎上騒動の当事者となってしまう65歳の元大学教授が主人公だ。序盤は過去の出来事や元妻や娘との関係など、主人公の人となりを紹介しつつ、ある詩人に関する本を執筆する様子が描かれる。そこには詩人に対する純粋な愛や共感がしっかりとみられる。悪意は全く感じない。
だからその後に彼が、世間からレイシストだの、文化の盗用だの、ホワイトウォッシュだのと誹謗中傷にさらされてしまったのには戸惑ってしまった。ただ、その詩人に関するある重要な情報を巧妙に隠す叙述トリックは上手かった。初めてその事実が明らかになった時には、えっ!と思わず声が出そうになった。
思わぬ炎上騒動に巻き込まれた主人公は戸惑い、取り乱す。若い頃は差別反対の運動に参加するなど、リベラルを自負していただけになおさらだ。そうではないと誤解を解こうと試みるのだが、それがかえって火に油を注ぐ結果となり、騒ぎはどんどんと大きくなっていく。
主人公は世の中の動きについていけない、いわゆる意識のアップデートが出来ていない人と見做されるのだろう。それでも開き直るのではなく、本を読んだりして謙虚に学ぼうとする姿勢があったのは立派だった。だがそれでも分からない。さらに墓穴を掘って炎上に火をくべてしまう。
そんな何もかもが裏目に出てしまう主人公の皮肉な行動を面白がる物語なのかもしれないが、正直なところ、主人公の主張のどこが問題なのか上手く理解できていない自分がいた。それどころか相手の批判にいちいち反論したくなったりもして、自分の中の価値基準がグラグラと揺さぶられているような感覚になる。
きっとこれは唯一の正解があるものではない。だから主人公を純粋に笑える人などいないのだろう。いたらきっとヤバい人だ。誰もが自分の中に無意識の差別や偏見はないだろうかと恐る恐る確認し、不安を覚えつつもなんとか社会と歩調を合わせようとしている。そんな中で自分は絶対に間違っていないと思える人は、絶対に何かを間違えている。
ところで、炎上騒動に心を痛める主人公が「こんまりメソッド」で知られる近藤麻理恵のネット配信番組を見て癒され、彼女への熱い妄想を数ページに渡って語る場面があり、近藤麻理恵はすごいなと感心してしまった。こんなところで彼女のワールドワイドな活躍を実感するとは思わなかった。
ただここに主人公のアジア人に対する無自覚な偏見がある事は薄々感じることができて、こんな風に他でもやらかしているのだろうなと想像出来る。
自分の偏見を大っぴらに表明することが許されなくなった社会で、おのずとずる賢くなっていくレイシストの新たな方便を暴露するには、つねに鋭敏であり続けなければならなかった。
p162
ポリコレの話だけでなく、ネット炎上や拡大する有名人の影響力など、現代に見られる様々な世相を風刺を交えつつ描く作品だ。ページをめくる手をしばし止めて、色々と考えてしまう時間が何度もあった。そしてそれだけでなく、ちゃんと最後にオチも用意されていて、物語としてもしっかりと楽しめるようになっているのが素晴らしい。
著者
アベル・カンタン
登場する作品
「ユダヤ人問題の考察(ユダヤ人 (岩波新書))」
「ニグロ・マダガスカル新詩歌アンソロジー(Anthologie De La Nouvelle Poesie Negre Et Malgache)」
ブラック・ボーイ 上: ある幼少期の記録 (岩波文庫 赤 328-1)
*「兵法」
「我らが青春(われらの青春―ドレフュス事件を生きたひとびと (1976年))」
「ブラック・ブルジョワジー(Black Bourgeoisie)」
「黒いオルフェ」 「世界文学全集〈第25〉サルトル,ニザン―20世紀の文学 (1965年) 一指導者の幼年時代 奇妙な友情 黒いオルフェ 人と物 行きと復り 陰謀 他」所収