★★★☆☆
あらすじ
気まぐれに普段滅多に着ることのないスーツを着て出かけた男が、バーで不思議な女と遭遇する表題作など、全8編の短編集。
感想
どことなく冷ややかな感触の物語が多い印象を受ける短編集だ。遠い昔を回想するようなものが多く、その時間的距離が離れすぎて、第三者的な冷静さを感じてしまうからかもしれない。見知らぬ他人に突然声をかけられる不穏な場面も多い。
旅館で普通に猿が働いている「品川猿」なども面白かったが、一番印象に残ったのは表題作の「一人称単数」だ。着慣れないスーツを気まぐれに着て出かけた男がバーで見知らぬ女に言いがかりをつけられる。
普段あまり着ないような服を着ると、落ち着かない気分になるものだ。それだけでいつもなら当たり前にやっていたことを出来なくなったりする。勝手に気後れしてしまっているのかもしれないし、こちらの身なりで相手が態度を変えるからなのかもしれない。中身は何も変わっていないのに、外側を変えただけでいつも通りでいられなくなってしまうのは興味深い。逆にこの現象をうまく利用することも出来るだろう。
それから自分に相応しい恰好、相応しくない格好があるというのも、よく考えれば不思議だ。もしかしたら他人から見れば全く違和感はないのかもしれないが、それでも自分らしくないと感じてしまう服装は確かにある。
これはこれまでの人生でどんなものを着て来たのかが影響するはずだ。だから若いうちはそこまでそう感じてしまうような格好はないのかもしれない。歳を重ねるうちに自分らしい服装というものが形作られていく。個人に限らず長い歴史の中で、公務員らしい恰好、裏社会にいそうな恰好などといった型も出来てきた。
自分ではまずすることのないだろうファッションに身を包んだ同年代の他者を見て、あの人みたいな恰好をするような人生が自分にもあったのかもなと想像し、遠い目をしてしまう気持ちは良く分かる。いくつもの人生の分岐点を経て、一人称単数の自分は今ここにいる。マルチバースの別の世界では、また違う出で立ちをした一人称単数の自分がいるのだろう。
そう、人生は勝つことより、負けることの方が数多いのだ。そして人生の本当の知恵は「どのように相手に勝つか」よりはむしろ、「どのようにうまく負けるか」というところから育っていく。
p141
その他にも人生について考えしまう描写が随所にある。上記は深そうに見えて、弱小球団の応援を続ける自分に対する言い訳なのが可笑しい。だがやっぱり深い。
それから記憶をなくす話が多かったので、著者は物忘れが激しくなってそれを気にしているのかな、などと勝手な想像をしたりした。
著者
登場する作品