★★★★☆
内容
私娼窟・抹香町へ通う初老の独身男を描いた「抹香町」など収録の短編集。
感想
著者の青年期から老年期までの各年代が描かれた私小説の短編が並んでいる。今までこの著者・川崎長太郎の作品は読んだことがなく、年甲斐もなく欲望に振り回される姿を描いたものが多いのかと思っていたが、すべて読み終えて強く印象に残るのは「老い」を描いた部分だった。老人になっていく自分、老境を迎えた自分の姿を、意識的に描写する場面が多い。両親や家族の昔話が多いのも老いの特徴か。
著者は50歳を迎えても売れない独身の作家という身の上なので、老後に不安を覚えるのは当然のことなのかもしれない。健康のために歩き回って足腰を鍛えたり、食事にも気を使っている。そうやって老後に備えているくせに、金銭的な面については何とかなると高をくくっているのがなんだか可笑しい。貯蓄するために安定した職に就こうなどとはさらさら考えておらず、なんとか暮らせていけるわずかな金銭を文章を書くという好きな事で稼げているだけで僥倖だと満足している。つまりはそうでなければ生きていても仕方がないという事だろう。それが長く続けられるよう健康の維持に努めているわけだ。
そして著者が電気も水道もない小田原の狭い物置小屋で暮らしているというのがすごい。今よりも貧しい時代で感覚も違うのだろうが、それでも特に不満も感じず暮らしていたようなので、彼こそ本当のミニマリストなのかもしれない。現代の意識の高いミニマリストたちは、この先駆者の存在を完全に無視しそうだが。さらに、小田原にいながら東京に文章を送って生活していたというのだから、リモート生活の先駆者でもあるといえる。
それから小説の中では少ししか触れられていなかったが、その後、ちょっとしたブームがやってきて、著者が世間の人気を集めるようになった時には、全国から訪れたファンの女性にこの物置小屋で次々と手を出していたらしい。人生何があるか分からない。この頃について書かれた小説があるのなら面白そうなので読んでみたい。
そしてずっと独り身だった著者は、老年を迎えてから30歳も年下の女性と結婚する。これは奇しくも本書最後の短編「徳田秋声の周囲」で描かれる師匠の徳田秋声と同じような状況だ。著者はこのことについてどう感じていたのだろうか。人生とはこんな風に、意識的なのか無意識なのかに関わらず、過去の出来事が相互にリンクしながら築かれていくものなのだなと、大河ドラマを見たような感慨深さがあった。
著者
川崎長太郎
登場する作品
「冬きたりなば(冬来たりなば)」 監督 ハリー・ミラード
*所収「三人姉妹」
登場する人物
徳田秋声