★★★★☆
あらすじ
不慮の事故で亡くなった夫が別人に成りすましていたことが判明し困惑する女性から相談を受け、その男の素性を探ることになった弁護士。
感想
自分の結婚相手が名前や素性を偽っていたと知ったら間違いなく驚く。しかも偽名ではなく実在する赤の他人の名前を騙っていると分かったら、犯罪の匂いも感じて困惑し、怖くなるはずだ。なぜこの「ある男」は別人として生きるようになったのか、そしてどのように成り済ましたのか、それらが少しずつ明らかにされていく。途中で若干話がややこしくなるが、ミステリーとして十分楽しめた。
そしてそれと同時に、本当の自分とは何なのか、という事も考えさせられる。別人の名前で別人の人生を語っている時、そこにいるのは誰なのか、元の自分なのか、それともその別人なのか、考えれば考えるほど段々と分からなくなってくる。ただこの物語では、本当の自分とはこういうものだと決めつけて、それを偽るのは良くないことだ、とはしていないところがいい。自分とは多面的なもので、自分がこうありたいと望む一面を押し出していけばいいという、著者のいわゆる「分人主義」が感じられる。
自分で自分をどう捉えるかという問題と同様に、他人が自分をどう捉えているのかという事も、他者と関わり合いながら生きていく人間社会では重要な問題である。たいてい他者というものは自分が望んでいるようには自分を見てくれないものだが、この「ある男」のように、自分自身でも消し去りたいようなどうすることも出来ない面だけでしか自分の事を見てくれないとしたら悲惨だ。主人公自身も、人柄や能力など多様な側面を持つ人間なのにそれらが一切無視され、自分ではさほど意識する事のない出自の面だけに異様な関心を向けてくる特定の人たちがいることに戸惑っており、それが「ある男」に対する興味を掻き立て、執着させている原因の一つとなっている。
誰かの人生を見て「もし自分がその人の人生を生きていたらどうなのだろう」と考えることはわりとあるが、この主人公のように「もし今自分がその人の人生を引き継いだらどうなのだろう」と考えた事は無かったので、その発想はとても面白く新鮮だった。そしてもしそうなったとしたら、なんとなくその人の良いところだと自分が感じられる部分を最大限に活用して生きていこうとするような気がする。それは決してその人になり切るという事ではなく、その人を利用して新しい自分になろうとするという事なのだろう。他人を偽るようになった「ある男」は、自分の好きなように半生をでっちあげても良かったのにそうはせず、律義に人生を引き継いだ他人の半生をなぞって語っていたのは、そういうところがあったのだろうなという気がした。
著者
平野啓一郎
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