★★★★☆
あらすじ
愛人との会話がきっかけで、死を意識するようになった40代の会社重役の男。
感想
兄は会社重役、弟は役者の兄弟を中心に、周辺人物も加えて順番に語り手が入れ替わりながら進行する物語だ。いつの間にか視点が変わっている文章が面白い。少し取っ散らかっているそれぞれの語り口も、実際の心の中のつぶやきを文章化したようでリアルだ。
兄の愛人から始まる物語は、皆の心に少しずつ死の不安が広がっていく様子を描き出す。彼女の言葉をきっかけに、出会った人たちの間を死のイメージが伝播していっているのよく分かる。まるでバイアスがどのように人々に影響を与えるのか、その実例を見ているかのようだ。皆が、自分の考えに死を結びつけるようになっている。
昔の人が死後の世界を信じ、死は通過点に過ぎないと考えていたのに対し、非科学的なことを信じない現代人は、死んだら終わりだと考えるから不安になる、という考察は興味深い。真実よりも、願望が満たされる作り話の方が、どれだけ人を安心させるのかを表していると言えるだろう。
それと同時に、信じれば楽になるのに信じてはダメだと我慢する科学至上主義の窮屈さも感じる。今はそこまで頑なでないような気がするので、当時はいかに肩ひじを張っていたのかがわかる。もはや我々は迷信に惑わされない文明人なのだ、と気負っていたのだろう。
途中で舞台役者の弟が、劇団の演出家と皆の前で議論して、劣勢となってしまった時のことを思い出し、どこがいけなかったのか、どうすれば良かったのかとウジウジと反芻を続ける場面は、気持ちがよく分かって可笑しかった。今更どうしようもないことを、いつまでも気にしてしまうことはよくある。
人々がつながることで互いに影響を与え合っていることがよく分かる物語だ。他人に影響されまくっていることに気づかず、何から何まで全部自分の頭で考え、行動していると思い込んでしまっている我々人間の滑稽さも感じられる。登場人物たちに影響を与えたそもそもが、兄の愛人の昔の男だった、というのも物語の妙がある。登場人物の誰もが、まさかそんな男の影響を受けているなどとは思っていないはずだ。
著者
丸谷才一
登場する作品
「新古今集(新訂 新古今和歌集 (岩波文庫 黄 101-1))」
「美濃の家つと」 本居宣長
「往診中の一事件」 チェーホフ
