★★★☆☆
あらすじ
移民としてやってきた男と、彼と行動を共にする母親を探す男の子。
感想
移民として一緒にとある街にやってきた初老の男と母親を探す男の子の物語だ。その冒頭からどこかふわふわしていて、いかにも寓話的だ。以前に何があったのか、主人公である老人は何をしていたのか、何も明かされない。
二人がやってきた街は、一応は良さそうな街だ。難民のために住む所も用意してくれるし、仕事も紹介してくれる。バスもタダだし、仕事の補償もしっかりとしていて、生活のサポートは十分に満足できる。ただ、どこかおかしい。
そして、そこに住む人々も善人だがどこか変だ。主人公たちが最初に出会った移民センターの受付の女性は、泊まる場所がないという二人を自宅に連れて行ってくれるのだが、案内されたのは裏庭で、そこで野宿しろという。この親切なのだか、鬼なのだか分からない行動が不気味だ。それでも知らない人間を自宅に泊めてあげること自体が親切なのかもしれないが、野宿しろという事の冷酷さを自覚していないのが怖かった。
その後、主人公は順調に住む場所が決まり、仕事も決まる。ただ、仕事先の同僚たちも善人なのだがどこか噛み合わないし、知り合った女性との関係もどこかちぐはぐでしっくり来ず、主人公はストレスを感じている。おそらく原因は、彼らが物分かりが良すぎるという事なのかもしれない。彼らの言う事は道理が通っていて正論なのだが、じゃあこの行き場のない感情はどうすればいいのだ?という煩悶を理解してくれない。煩悩に悩む人と悟りを開いた人との違いのようだ。
そのうち一緒に行動していた男の子の母親が見つかり、彼女に子供を託すのだが、ここからこの男の子が扱いにくい我儘な子供へと変わっていく。読んでいても腹立たしく、イライラするぐらいだ。そんな少年に引っ張られるように、母親も主人公も世間から外れていってしまう。特に主人公は、世間の言い分を理解しながらも、どこかで少年の言う事にシンパシーを感じていたという事なのだろう。
これは有意義なルールだから、従ったほうがいい。ただ従うだけでなく、前向きに従うべきだ。嫌々引っ張っていかれるラバみたいな態度じゃなく、熱意と善意をもって。
p248
タイトルからも想像できるが、キリストや聖書の話を意識しているのだろうから、その知識がないとそこまで楽しめないのかもしれない。少年がイエスなのはもちろん、その他の登場人物たちも聖書に登場する人物たちを表しているのではないかとされている。書評によっては、笑えるだとか、抱腹絶倒だとか言っているのもあったが、個人的にはそんなことは全然なかった。ただ、冒頭につながっていくようなラストは見事だった。
それからおそらく原文がシンプルだからなのだろうと思うのだが、ナチュラルな翻訳で違和感なく読み進めることができた。特に若者言葉の訳し方があまりにも自然で、リアル過ぎてちょっと笑えてくるぐらいだった。
著者
J・M・クッツェー
翻訳 鴻巣友季子
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