★★★★☆
あらすじ
日露戦争に備えて満州へ諜報活動に向かった男は、道中で耳にした石炭が取れるらしい町の調査も行うことにする。
直木賞受賞作。
感想
男が通訳と共に満州へ諜報活動に向かうところから物語は始まる。この男が主人公なのかと思っていたら、かなり早い段階で死んでしまったので一瞬戸惑ってしまった。この物語は、この男らが目を付けた満州のある街を舞台に、そこで生きた人々の姿が描かれる群像劇だった。
登場するのは、元々いたロシア人宣教師や日露戦争後にやって来た日本人たち、そして地元の中国人たちと様々だ。中国人の中にも時の勢力に接近する者から抵抗する者まで様々いる。地元の人からしてみれば、勝手な思惑で外からやってきた人たちに好き放題されるなんてたまったものではないだろう。しかもそれに対してどのような態度を取るのか、毎回決めなければならない。
この街に関わる人々の様々な思惑が入り乱れ、街は変化していく。数いる登場人物の中で興味深かったのは、憲兵の男だ。当時の大日本帝国の思想を素直に信じており、そのために尽くそうとしている。だがその結果彼がやったことと言えば、地元民を騙したりリンチをしたり、挙句の果てには大量虐殺と、ロクでもないことばかりだ。
忠実に国の教えを実行しようとする彼は、当時の日本人としては褒められるべき存在なのだろう。だが純粋まっすぐ過ぎて融通がきかず、上司にまで疎まれていたのは皮肉だった。今でも誰かを盲信・崇拝して生きている人は多いようだが、こういう人たちはいつの時代も都合よく利用されるだけなのがオチだ。美味しいところは全部操っている人に持っていかれる。
終戦時に玉音放送を聞いた彼が、天皇がこんなこと言うわけない、偽物だ、と信じない姿はもはや滑稽だった。信じているものを信じないわけの分からない状態になってしまっている。自分の中に勝手に理想の天皇を作り上げてしまっているので、理想通りのことをしてくれない現実の天皇はもはや邪魔なのだろう。たまに見かける皇室が嫌いな自称右翼の人の気持ちがなんとなく理解できたような気がした。
この群像劇の中心となるのは、当初通訳だった男だ。何を考えているのか分からないような独特な雰囲気を持った男で、その得体の知れなさがとても魅力的に描かれている。彼が建築物を分析して、そこからさまざまな情報を読み取る場面は面白かった。
彼は国家の未来を真剣に考えて戦争を回避しようと試み、それが無理ならさっさと終わらせる方法を考え、それも無理なら敗戦後を見据えた行動を取るようになっていく。そこまで国の事を考えている彼が、現実を直視せず、何の根拠もないのに神州日本が負けるわけがないと無邪気に信じているだけの憲兵に、非国民だと罵られてしまうのだからしんどい。
世界各国が地図をめぐって拳を交えた時代の、満州のとある町の50年の歴史が綴られる。50年もあれば様々なことが起こり、そして変わっていく。読み応えのある壮大な叙事詩に雄大な気持ちになるが、読後に漂うのは兵どもが夢の跡の虚しさだ。
著者
小川哲
登場する作品
「台湾誌」 ジョルジュ・サルマナザール
エウパリノス 魂と舞踏 樹についての対話 (岩波文庫 赤 560-4)
「人虎伝」
「ソツゴロド」 ニコライ・アレクサンドロヴィッチ・ミリューチン
「ザ・コンプリート・アングラー(The Compleat Angler or the Contemplative man's Recreation.)」
「小教程」
「アトラス」 ゲラルドゥス・メルカトル