★★★★☆
あらすじ
高収入の仕事に就いて資産もあり、恋人もいて恵まれた生活を送る中年の男は、ある日蒸発することを決意する。
感想
何もかもが嫌になってしまった中年男が主人公だ。冒頭の、スペインの別荘で若い恋人と余暇を過ごすという他の人なら羨みそうなシチュエーションですら、主人公が憂鬱になっているのが象徴的だ。人生に絶望したというよりも、生きる希望を失っている。何をやりたいとも思えず、ただ生きている。
そんな彼が、今だ残るしがらみを断ち切るために取った方法が「蒸発」だ。仕事を辞め、恋人と暮らす高級マンションを何の前触れもなく立ち去る。そして社会と隔絶した日々を過ごすようになった彼は過去を振り返る。どこで間違ってしまったのかと。
それはぼくたちが生きようとしている夢を暗示しているように思われた。外の世界は辛く、弱者には容赦なく、約束はそこでは決して守られず、愛は、おそらく唯一の、信じるに足りるものだったのだ。
p180
彼が思い出すのは、別れてしまった恋人たちのことだ。不用意に愛を手放してしまい、人生を共に過ごす相手を逃してしまったことを悔いている。
思うに彼は高度に発達した現代社会の可能性を信じすぎてしまったのだろう。望めばいくらでも輝かしい未来を手に入れられると、今手にあるものを大切にしてこなかった。そして歳を重ねたある時、大事なものを失ってしまっていたことに気付く。それはもう取り戻せることはなく、もはや今後手に入れることは出来ないものだ。
主人公は過去の知り合いたちを訪ね歩いたりもしているが、同年代の彼らもまた同じようにどん詰まりの状況にあるのが印象的だった。可能性の開けた素晴らしい社会で、何一つ確定させることなく、可能性を追い求めてしまった結果がこれだ。行き詰まりを感じさせる現代社会の宿痾と言えるかもしれない。
主人公の行なう「蒸発」や「引きこもり」は日本的な概念のようだが、もしこれが日本の小説だったらきっとオタク的な要素が加わるような気がする。ただし、幸せホルモンのセロトニンのサプリメントさえあれば愛なんてなくても大丈夫、一生楽しく暮らせていける、となってしまいそうだが。
そう考えると、日本はある意味で欧米より先を行っているのかもしれない。だが、愛を手に入れ損ねた場合と最初から求めていない場合とでは状況は違う。だからきっと日本でも同様に、主人公に共感を覚える人は多いはずだ。
著者
ミシェル・ウエルベック
登場する作品
「クレージー兵士」
*「ヴェニスに死す」
緋色の研究 【新訳版】 シャーロック・ホームズ・シリーズ (創元推理文庫)