★★★☆☆
あらすじ
編集者に次作のタイトルを「吾輩は日本作家である」にすると告げた作家。
感想
カナダに住む黒人作家が、次作のタイトルを「吾輩は日本作家である」と決めたことから始まる物語だ。タイトルを聞きつけた日本大使館の人物が接触を図ってきたり、日本でちょっとした話題になったりする。また主人公は取材のために日本人のいる場所に足を運んだりもする。大きな物語が描かれるのではなく、淡々としたペースで箇条書き的に日々が綴られていく。
何人かの日本人が登場するのだが、彼らの名前がタニザキだったりムラカミだったりムラサキだったりと、日本人作家の名前が付いているのが面白い。「ショウナゴン」という女性も登場して誰?と思ったが、清少納言の事だった。
元ハイチ人で亡命してカナダ人となった黒人作家が、日本作家であると公言したことによって起きた波紋だったり、警官が住む場所や見た目から相手を判断すること、日本人の女子グループが集団内で互いを監視しあっている様子などが描かれ、これはアイデンティティやステレオタイプに関する物語なのだなという事が分かってくる。小説の中では「クリシェ」という言葉が使われている。
その中で、主人公に心酔して自分を失くしてしまった友人の話が印象的だった。誰かに心酔したり憧れたりするのは悪いコトではないが、度を超すと自分のアイデンティティを見失ったような状態になってしまう。宗教にのめりこんだり、怪しげな人物に傾倒したりする人たちも、同じ類の問題を抱えていると言えるだろう。その友人の妻が、夫といても全く夫と向き合っている気がしないと、主人公に助けを求めに来るのが切なかった。本人はそこにいるのに、その人ではないなんて。
人々は互いに影響を与え合って生きている。世界中の人が簡単に交わることが出来る現代においては、つまりは皆がどんどんと似通ってくるという事だ。彼等にとってかけ離れたような特殊な存在に思えた日本だって、西欧の文化と交わることで互いが互いに寄せ合って、差異は小さくなってきている。そんな時代にステレオタイプで物事を語るなんて馬鹿らしい。そんなメッセージが感じられた。
そもそも、まだタイトルしか決まっていない、存在すらしていない小説が議論になること自体、中身ではなく外見でジャッジするステレオタイプそのものだ。
著者
ダニー・ラフェリエール
登場する作品
失われた時を求めて 1~第一篇「スワン家のほうへI」~ (光文社古典新訳文庫)
「Le Chemin étroit vers les contrées du Nord : Précédé par huit haïku(おくのほそ道)」
「Suzanne(スザンヌ)」
「ギリシア人は神話を信じたか―世界を構成する想像力にかんする試論 (1985年) (叢書・ウニベルシタス)(ギリシャ人は神話を信じたか)」
「Bebe Paramount (Tabou Combo)(べべ・パラマウント)」
「運命論者ジャックとその主人(運命論者ジャック)」